「言い訳するな」という道徳の罠
一見すると当たり前の道徳―“美徳”―が、論理的思考を静かに侵食することがある。
ある中学校教師のSNS投稿が目に留まった[参照]。
> 言い訳をしない
> 注意されたら素直に聞く
> 誰でもできる当たり前のこと
悪意はないだろう。むしろ誠実な教育観から出た言葉だと思う。
しかしこの「当たり前のこと」は、論理的思考の基盤を静かに侵食している。
● 「言い訳」とは何か
「言い訳するな」と言われるとき、禁じられているのは何か。
論理的な場面など多くの場合、「言い訳」とは命題「P→Q」の条件節 P の指摘だ。
新型コロナ感染症の際の「今の状況が続いたら40万人死にます」[参照]
→対策が講じられて死者が抑制された
→「死ななかったじゃないか責任取れ」
条件節を説明することが「言い訳」として封じられる。
「今の状況が続いたら2か月で詰む」[参照]と警告した人が、
「詰まなかったら責任取るのか」[参照]と非難される
——「今の状態が続けば」という前提を無視したまま。
条件節を説明しようとすると、「言い訳するな」と返ってくる。これも同型だ。
経済産業省の資料に「半分確保できれば目途がつく」とあるのに、「目途がついた」と
発言した政治家も同じ構造だ[参照]。条件節が脱落している。しかも根拠資料を
伏せていないということは、条件節の脱落に本人が気づいていない可能性が高い。
● 再生産される構造
以前、書いた下記↓の記事
2021-06-20 必要条件と十分条件(つづき)
| 本人は真剣に議論
…
| 必要条件と十分条件がうまく扱えない人が教育関係に進んで
| 必要条件と十分条件がうまく扱えない人を再生産する
…
| 再生産された人々が政治家やマスコミ関係者になる
「言い訳するな」という道徳は、この再生産構造を強化する。
条件節を省略した断定を「潔さ」と見なし、論理の粗さを「当たり前のこと」として
積極的に指導する。
しかもこれは個人的な印象だけではない。TALIS 2018 をもとにした図[参照,ポスト]では、
日本の教師は「生徒の批判的思考を促す」「批判的思考が必要な課題を出す」の両方で、
他国に比べて著しく低い位置にある。
条件節を扱う訓練が弱いまま、それを再生産している可能性を疑わざるをえない。
命題論理をうまく扱えないまま「言い訳するな」と指導すれば、条件節を省略する生徒を
育てることになる。その生徒が政治家・マスコミ・専門家になる。
悪意のない、真剣な教育の連鎖として。
● 「素直に聞く」の問題
「注意されたら素直に聞く」も同じ構造を持つ。
条件節を指摘することが「言い訳」なら、反論することは「素直でない」ことになる。
エビデンスに基づく異議申し立ては、この道徳の枠組みでは「態度が悪い」として処理される。
専門家が前提条件つきの予測を示しても、その条件節が「言い訳」として受け取られ、
「素直に」結論だけを受け取ることが求められる。そして対策によって最悪が回避された場合、
「外れた」と非難される。
● 道徳と論理の衝突
「言い訳するな」「素直に聞く」は、対人関係の潤滑油として機能する面がある。
しかし、これが論理的な場面に持ち込まれるとき、問題が起きる。
条件節の説明を「言い訳」と見なす文化は、命題論理の運用そのものを封じる。
この問題は個人の知識不足ではなく、美徳として内面化された道徳の問題だ。
だからこそ根が深い。
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[関連記事] https://suchowan.seesaa.net/search?keyword=必要条件
[2026-06-29 追記]
2026-06-28T00:54>ナフサ詰まなかったよ。責任取って放送停止にして下さい。
https://x.com/atu0511/status/2070898655868141748
ある中学校教師のSNS投稿が目に留まった[参照]。
> 言い訳をしない
> 注意されたら素直に聞く
> 誰でもできる当たり前のこと
悪意はないだろう。むしろ誠実な教育観から出た言葉だと思う。
しかしこの「当たり前のこと」は、論理的思考の基盤を静かに侵食している。
● 「言い訳」とは何か
「言い訳するな」と言われるとき、禁じられているのは何か。
論理的な場面など多くの場合、「言い訳」とは命題「P→Q」の条件節 P の指摘だ。
新型コロナ感染症の際の「今の状況が続いたら40万人死にます」[参照]
→対策が講じられて死者が抑制された
→「死ななかったじゃないか責任取れ」
条件節を説明することが「言い訳」として封じられる。
「今の状況が続いたら2か月で詰む」[参照]と警告した人が、
「詰まなかったら責任取るのか」[参照]と非難される
——「今の状態が続けば」という前提を無視したまま。
条件節を説明しようとすると、「言い訳するな」と返ってくる。これも同型だ。
経済産業省の資料に「半分確保できれば目途がつく」とあるのに、「目途がついた」と
発言した政治家も同じ構造だ[参照]。条件節が脱落している。しかも根拠資料を
伏せていないということは、条件節の脱落に本人が気づいていない可能性が高い。
● 再生産される構造
以前、書いた下記↓の記事
2021-06-20 必要条件と十分条件(つづき)
| 本人は真剣に議論
…
| 必要条件と十分条件がうまく扱えない人が教育関係に進んで
| 必要条件と十分条件がうまく扱えない人を再生産する
…
| 再生産された人々が政治家やマスコミ関係者になる
「言い訳するな」という道徳は、この再生産構造を強化する。
条件節を省略した断定を「潔さ」と見なし、論理の粗さを「当たり前のこと」として
積極的に指導する。
しかもこれは個人的な印象だけではない。TALIS 2018 をもとにした図[参照,ポスト]では、
日本の教師は「生徒の批判的思考を促す」「批判的思考が必要な課題を出す」の両方で、
他国に比べて著しく低い位置にある。
条件節を扱う訓練が弱いまま、それを再生産している可能性を疑わざるをえない。
命題論理をうまく扱えないまま「言い訳するな」と指導すれば、条件節を省略する生徒を
育てることになる。その生徒が政治家・マスコミ・専門家になる。
悪意のない、真剣な教育の連鎖として。
● 「素直に聞く」の問題
「注意されたら素直に聞く」も同じ構造を持つ。
条件節を指摘することが「言い訳」なら、反論することは「素直でない」ことになる。
エビデンスに基づく異議申し立ては、この道徳の枠組みでは「態度が悪い」として処理される。
専門家が前提条件つきの予測を示しても、その条件節が「言い訳」として受け取られ、
「素直に」結論だけを受け取ることが求められる。そして対策によって最悪が回避された場合、
「外れた」と非難される。
● 道徳と論理の衝突
「言い訳するな」「素直に聞く」は、対人関係の潤滑油として機能する面がある。
しかし、これが論理的な場面に持ち込まれるとき、問題が起きる。
条件節の説明を「言い訳」と見なす文化は、命題論理の運用そのものを封じる。
この問題は個人の知識不足ではなく、美徳として内面化された道徳の問題だ。
だからこそ根が深い。
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[関連記事] https://suchowan.seesaa.net/search?keyword=必要条件
[2026-06-29 追記]
2026-06-28T00:54>ナフサ詰まなかったよ。責任取って放送停止にして下さい。
https://x.com/atu0511/status/2070898655868141748
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