「懸案」の列挙
2025-04-01 「「『日本暦日原典』による明治改暦に関する通説の再検討」の懸案」
| 現時点で、どのような事項が懸案として残されたのか
以下、それらの懸案を列挙しておきます。
・塚本明毅は「春分回帰年」の概念をどの程度までの深さで理解していたか?
「改暦の詔書」では、太陽暦の方が太陰太陽暦より優秀であることを主張する論旨を採用
したため、太陽暦の誤差は「七千年餘に一日」ないし、それより高精度としなければなら
なかったのですが、一方で、「詔書」という性格上、
2013-04-22 「塚本明毅」評伝
|「誤差七千年に一日」という説明が嘘にならないということを理解していなければできな
かったはずです。評価の基準が「春分回帰年」と一致するのは偶々ではないでしょう。
ただ、それ以上のことは手掛かりがない。
・「建白書」が誤差を「八千年に一日餘」とした根拠は?
「周年」を「春分回帰年」とみなした(「再検討」[3])のか、地球の近日点が黄道を一周する
間に5連続の大の月が1セット消える「紹介」第2章の計算(「再検討」[4])に拠ったのか不明。
ただ、海軍伝習所出身の塚本明毅が「英国暦」の365日5時間48分47.46秒という回帰年の
長さを知っていて、
2023-04-16 365日5時間48分45秒
| 標題の数値は、生徒が計算しやすく、数を扱う“土地勘”を養えるよう調整&選択
| された数値だった
場合は、「再検討」[4] の方は成立しなくなります。
・明治5年11月5日提出の「建白書」は「暦法議案」とどれほど差分があったのか?
明治6年の新旧暦日対照表を付加した以外は「暦法議案」と同一だったのではないかと
推定しています。ただ、これも、さらなる手掛かりはない。
・「明治6年太陽暦」の365日5時間48分50秒の根拠は?
「天保暦」と「英国暦」の両方に配慮した結果と推定しています。ただ、これも、
さらなる手掛かりはない。
・「時割」の懸案(「九ツ」と「子・午」)
・「時割」の懸案(「字」と「時」)
・「月名」の懸案(「正月」と「一月」) [1]
これらも「懸案」本文に書いたような推定はできますが、さらなる手掛かりはない。
・なぜ丸ごと1パラグラフ間違ったか?
際どいタイミングで内田正男氏に直接取材する機会を得られなかったことは残念でした。
2024-09-13 「凡そ」の有無
で分析したように、『遠西観象図説』(以下、単に『図説』)では「7200年」であるのに
対して「改暦の詔書」では「7000年」と互いに相違するにも関らず、「改暦の詔書」も
『図説』も両方読んでいた内田正男氏が“そのまま”使ったと記述しているという不思議
が浮かび上がります。ひとつの推定としては、内田氏にとって大先輩にあたる平山清次氏
(2621年の項も参照)や能田忠亮氏らの権威が大きすぎ、彼らに言われたことを其のまま
受け入れて、それが頭に刷り込まれてしまい、「改暦の詔書」や『図説』自体を読んでも
現実は違うと気づけなくなっていたのではないかという気がします。なお、
| 旧東京天文台長の広瀬秀雄(1909-1981)『日本史小百科 暦』(近藤出版社、1978年)の
|「暦日の人為変更」「御暦奏」<2011-09-1>の項、毎年2月初に翌年の「暦要項」を
|公示し「春分の日」と「秋分の日」を祝日として確定させる現代の運用からも認識
|できる常識的なものだ
と書きましたが、“人為変更”という表現は、裏を返せば「宣明暦」そのものは人為で
ないという認識を含意しており、広瀬秀雄氏自身は“「深層構造」と「表層構造」”と
いう概念整理に至っていなかったことがわかります。この分析が、最終段落の、
|「再検討」注64(「補足」4.2節第3文51))の経緯もあり遠かった。これらを綜合すれば、
|当時の旧東京天文台の人々が天文学者であって科学史家ではなかった
につながります。
なお、以下は懸案ではなく解決済みと考えています。
・『日本暦日原典』のグレゴリオ暦誤差2621年は計算間違いか?
幸い?出典とみられる平山清次『暦法及時法』pp.16-17に計算方法と計算結果の両方が
明記されているので、同一ソースの内部矛盾と確定でき、計算間違いと断定できます。
『図説』の円環年と、『図説』とは別ソースで『図説』にとって未来値であるニューカム
の回帰年とを比較して、『図説』の計算間違いとしたロジックとは事情が異なるわけです。
2012-08-19 「2621年ノ後一日」の謎
2025-02-03 計算尺
・明治31(1898)年勅令第90号は、なぜ西暦ではなく皇紀を使ったのか? [1]
明治5年太政官布告342号により法律では皇紀を使用することになっていたので、西暦その
ものを使わなかったのは当然のことです。西暦は日本の法律上に位置づけがなかった。
紀年を400で割った余りによって平閏を決定するのに、260ではなく余りになりえない660を
引いて、わさわざ西暦相当にしていることから、西暦を避けてはいないと考えられます。
[1] これらは「懸案」執筆の最終段階でクローズアップされた為、脚注での言及となりました。
→ つづく
[関連記事] https://suchowan.seesaa.net/search?keyword=明治改暦
| 現時点で、どのような事項が懸案として残されたのか
以下、それらの懸案を列挙しておきます。
・塚本明毅は「春分回帰年」の概念をどの程度までの深さで理解していたか?
「改暦の詔書」では、太陽暦の方が太陰太陽暦より優秀であることを主張する論旨を採用
したため、太陽暦の誤差は「七千年餘に一日」ないし、それより高精度としなければなら
なかったのですが、一方で、「詔書」という性格上、
2013-04-22 「塚本明毅」評伝
|「誤差七千年に一日」という説明が嘘にならないということを理解していなければできな
かったはずです。評価の基準が「春分回帰年」と一致するのは偶々ではないでしょう。
ただ、それ以上のことは手掛かりがない。
・「建白書」が誤差を「八千年に一日餘」とした根拠は?
「周年」を「春分回帰年」とみなした(「再検討」[3])のか、地球の近日点が黄道を一周する
間に5連続の大の月が1セット消える「紹介」第2章の計算(「再検討」[4])に拠ったのか不明。
ただ、海軍伝習所出身の塚本明毅が「英国暦」の365日5時間48分47.46秒という回帰年の
長さを知っていて、
2023-04-16 365日5時間48分45秒
| 標題の数値は、生徒が計算しやすく、数を扱う“土地勘”を養えるよう調整&選択
| された数値だった
場合は、「再検討」[4] の方は成立しなくなります。
・明治5年11月5日提出の「建白書」は「暦法議案」とどれほど差分があったのか?
明治6年の新旧暦日対照表を付加した以外は「暦法議案」と同一だったのではないかと
推定しています。ただ、これも、さらなる手掛かりはない。
・「明治6年太陽暦」の365日5時間48分50秒の根拠は?
「天保暦」と「英国暦」の両方に配慮した結果と推定しています。ただ、これも、
さらなる手掛かりはない。
・「時割」の懸案(「九ツ」と「子・午」)
・「時割」の懸案(「字」と「時」)
・「月名」の懸案(「正月」と「一月」) [1]
これらも「懸案」本文に書いたような推定はできますが、さらなる手掛かりはない。
・なぜ丸ごと1パラグラフ間違ったか?
際どいタイミングで内田正男氏に直接取材する機会を得られなかったことは残念でした。
2024-09-13 「凡そ」の有無
で分析したように、『遠西観象図説』(以下、単に『図説』)では「7200年」であるのに
対して「改暦の詔書」では「7000年」と互いに相違するにも関らず、「改暦の詔書」も
『図説』も両方読んでいた内田正男氏が“そのまま”使ったと記述しているという不思議
が浮かび上がります。ひとつの推定としては、内田氏にとって大先輩にあたる平山清次氏
(2621年の項も参照)や能田忠亮氏らの権威が大きすぎ、彼らに言われたことを其のまま
受け入れて、それが頭に刷り込まれてしまい、「改暦の詔書」や『図説』自体を読んでも
現実は違うと気づけなくなっていたのではないかという気がします。なお、
| 旧東京天文台長の広瀬秀雄(1909-1981)『日本史小百科 暦』(近藤出版社、1978年)の
|「暦日の人為変更」「御暦奏」<2011-09-1>の項、毎年2月初に翌年の「暦要項」を
|公示し「春分の日」と「秋分の日」を祝日として確定させる現代の運用からも認識
|できる常識的なものだ
と書きましたが、“人為変更”という表現は、裏を返せば「宣明暦」そのものは人為で
ないという認識を含意しており、広瀬秀雄氏自身は“「深層構造」と「表層構造」”と
いう概念整理に至っていなかったことがわかります。この分析が、最終段落の、
|「再検討」注64(「補足」4.2節第3文51))の経緯もあり遠かった。これらを綜合すれば、
|当時の旧東京天文台の人々が天文学者であって科学史家ではなかった
につながります。
なお、以下は懸案ではなく解決済みと考えています。
・『日本暦日原典』のグレゴリオ暦誤差2621年は計算間違いか?
幸い?出典とみられる平山清次『暦法及時法』pp.16-17に計算方法と計算結果の両方が
明記されているので、同一ソースの内部矛盾と確定でき、計算間違いと断定できます。
『図説』の円環年と、『図説』とは別ソースで『図説』にとって未来値であるニューカム
の回帰年とを比較して、『図説』の計算間違いとしたロジックとは事情が異なるわけです。
2012-08-19 「2621年ノ後一日」の謎
2025-02-03 計算尺
・明治31(1898)年勅令第90号は、なぜ西暦ではなく皇紀を使ったのか? [1]
明治5年太政官布告342号により法律では皇紀を使用することになっていたので、西暦その
ものを使わなかったのは当然のことです。西暦は日本の法律上に位置づけがなかった。
紀年を400で割った余りによって平閏を決定するのに、260ではなく余りになりえない660を
引いて、わさわざ西暦相当にしていることから、西暦を避けてはいないと考えられます。
[1] これらは「懸案」執筆の最終段階でクローズアップされた為、脚注での言及となりました。
→ つづく
[関連記事] https://suchowan.seesaa.net/search?keyword=明治改暦
この記事へのコメント