「午前」「午後」
本記事は、
2021-08-12 明治改暦の布告の時刻の表(午前と午後)
にいただいたたコメントをフォローアップして、
2021-08-11 明治改暦の布告の時刻の表
を訂正するものです。まず、
| 新しい時刻制度は定時法ですから、その説明には十二支による「十二辰刻」
| 表現と対応させる必要があった。
これは間違いでした。記事を少しとりおいて全文を読んでからにすべきでした。
基本的なポイントとして、明治改暦の布告の時刻の表での十二支による表現は、
2020-12-25 江戸時代の時法のイメージ
の (1) ではなく (3) [1]によっている。
これはのねむさんにいただいたコメントもありましたが、もっと根本的に、
一日を二等分し前半分・後半分をよぶ[2]にあたって、その境の中点「午」を
用いて「午前」「午後」とするという発想自体が (3) からでなければ出て
こないことからして必然。「午」が範囲を指したのでは二分割できない。
(1)(2)(3) のうち「午」が一日の中央を指す点であるのは (3) のみです[3][4]。
(3)は「不定時法」ですから、「定時法」「不定時法」の違いは関係なかった。
では、
|>ここでは零時を九ツ、一時を九ツ半とすればよかったのである。
となるかというと、やはりそれは無理ではないかと思います。
前記のとおり「午前」「午後」という概念を「午」に関係づけて用いる以上は、
時刻の表に「午」の刻を記載することは避けられなかった。「九ツ」としたの
では意味がない。
もうひとつ考えられるのは、やはり定義には一日の時刻に対して一対一になる
表現を使いたかったということもあるかもしれません。「数え表現」では、
ニ対一になってしまう。
ここまで分析すると「午前」という語の来歴が気になるところです。
明治改暦の布告文からどれだけ遡れるか?
現時点で分かっているのは、枚方すずめさんから別途いただいた情報で、
・明治改暦直前に開通した汽車の時刻表で使われている。
・明治3~4年開業の電信(電報)の受付時間の告知にもあったかも。
というもの。
さてどうなるでしょうか?
結果によっては今回の記事も修正が必要になるかもしれません。
なお、「布告」を法治国家の「法律」と、どのくらい同質と考えられるかに
ついては、別途の分析が必要ではないかと思います。
[1] (3) は柳河春三『西洋時計便覧』(明治2年)に見られるように当時
拡まって普及していた理解です(→ 2013-12-25 十二辰刻と不定時法)。
[2] このこと自体は西洋に倣っている。
[3] 2020-12-26 江戸時代の時法のイメージ(補足)の(I)数え表現も参照。
[4] (1) で「午の正刻」とまで表現すれば、一日の中央を指す点ではありますが…
2021-08-12 明治改暦の布告の時刻の表(午前と午後)
にいただいたたコメントをフォローアップして、
2021-08-11 明治改暦の布告の時刻の表
を訂正するものです。まず、
| 新しい時刻制度は定時法ですから、その説明には十二支による「十二辰刻」
| 表現と対応させる必要があった。
これは間違いでした。記事を少しとりおいて全文を読んでからにすべきでした。
基本的なポイントとして、明治改暦の布告の時刻の表での十二支による表現は、
2020-12-25 江戸時代の時法のイメージ
の (1) ではなく (3) [1]によっている。
これはのねむさんにいただいたコメントもありましたが、もっと根本的に、
一日を二等分し前半分・後半分をよぶ[2]にあたって、その境の中点「午」を
用いて「午前」「午後」とするという発想自体が (3) からでなければ出て
こないことからして必然。「午」が範囲を指したのでは二分割できない。
(1)(2)(3) のうち「午」が一日の中央を指す点であるのは (3) のみです[3][4]。
(3)は「不定時法」ですから、「定時法」「不定時法」の違いは関係なかった。
では、
|>ここでは零時を九ツ、一時を九ツ半とすればよかったのである。
となるかというと、やはりそれは無理ではないかと思います。
前記のとおり「午前」「午後」という概念を「午」に関係づけて用いる以上は、
時刻の表に「午」の刻を記載することは避けられなかった。「九ツ」としたの
では意味がない。
もうひとつ考えられるのは、やはり定義には一日の時刻に対して一対一になる
表現を使いたかったということもあるかもしれません。「数え表現」では、
ニ対一になってしまう。
ここまで分析すると「午前」という語の来歴が気になるところです。
明治改暦の布告文からどれだけ遡れるか?
現時点で分かっているのは、枚方すずめさんから別途いただいた情報で、
・明治改暦直前に開通した汽車の時刻表で使われている。
・明治3~4年開業の電信(電報)の受付時間の告知にもあったかも。
というもの。
さてどうなるでしょうか?
結果によっては今回の記事も修正が必要になるかもしれません。
なお、「布告」を法治国家の「法律」と、どのくらい同質と考えられるかに
ついては、別途の分析が必要ではないかと思います。
[1] (3) は柳河春三『西洋時計便覧』(明治2年)に見られるように当時
拡まって普及していた理解です(→ 2013-12-25 十二辰刻と不定時法)。
[2] このこと自体は西洋に倣っている。
[3] 2020-12-26 江戸時代の時法のイメージ(補足)の(I)数え表現も参照。
[4] (1) で「午の正刻」とまで表現すれば、一日の中央を指す点ではありますが…
この記事へのコメント
今回もお役に立てるかどうか、
太陽暦直前には12時も正午もあったようですね。
日付の9月は改暦前の9月です。ちなみに「晝十二字大砲一發ツ」の呼び名は午砲(ごほう)です。
明治4年9月2日太政官布告第453號
舊本丸ニ於テ來ル九日ヨリ晝十二字大砲一發ツ、毎日時號砲執行候條爲心得相達候事。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787951/210
明治4年9月14日兵部省規則第86號
祝砲定則
正午ニ祝砲貳十一發ヲ奉祝スヘキ事
(9月22日天長辰―明治天皇の誕生日、1/3, 5/15, 9/23招魂社祭日に祝砲を打つ)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787951/418
明治元年正月21日(公布時は慶應4年)第44號
毎日巳ノ刻出勤申ノ刻退出
と公務員の就業規則に書かれていますが、この一文からは定時、不定時の判別ができませんよね。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787948/59
2020-02-25 「オフィシャル」の実質 ( https://suchowan.at.webry.info/202002/article_24.html )
| 文化5年(1808)
| 目付 正六時を卯ノ上刻
と同じとすれば酉の上刻は暮れ六ツになりますね。
----- 以下枚方すずめさん ------
8月15日の 五角塲さんのコメントの 国会図書館デジタルコレクションで
明治4年の法令全書のぺーじをめくって見ました。
いろいろ面白い情報が見られます。 」安藤
① 明治4年11月3日 工部省 第16号 灯台の設置の告知
設置日 明治4年10月19日
西暦1871年第12月1日 と 2暦併記 (西暦はG暦?)
位置は 北緯33度・・・
グリーニツチ英国天文台より 東経130度52分49秒に当たる
② 明治4年11月 第109号 陸運会社規則
・・・人馬夜継 酉の上刻より丑の下刻までは5割増の賃銭・・・
③ 明治4年11月5日 第93号 租税取扱い
・・・貢米水揚の時刻は 朝六ツ半時より夕六ツ時迄の事 (12辰刻? 西洋時?)
④ 明治4年5月 第268号 造幣規則 第1条
・・・朝第10字より午後第1字まで (午前でなくて 朝 )
ということから判ることは2つ。
(1) この記述で通達の出し手と受け手が同じく解釈できると認識されていた。
つまり、時刻制度について共通理解されるデ・ファクトがあった。
(2) 明治改暦の布告の執筆者も就業規則が適用される公務員である。
つまり、その共通理解されるデ・ファクトを用いる当事者であった。
『暦の語る日本の歴史』212頁あたりの記述は、
>さらに時刻に関する表で、零時を子刻、一時を子半刻としているが、大体
>天保暦では九ッ八ッ式のいい方をしていたのであるから、ここでは零時を
>九ッ、一時を九ッ半とすればよかったのである。子の刻は午後一一時から
>午前一時までという時間帯であり、九ッというのは零時という時刻である。
>子半刻のようないい方は一部で間違って使われたかも知れないが、普通
>使われなかったはずである。
とのことです。自身の理解と現実の間に乖離を見つけた時に自身が正しく
現実が間違っているというロジックはおかしい。具体的には、「普通使わ
れなかったはずである」の根拠が示されていない。「はずである」という
あやふやなことを書かずとも、当事者が公式文書で現に使っているという
のは、きわめて重要な反例ではないだろうか?
論理の方向が逆(自身の理解で現実を否定→現実により自身の理解を更新)で、
一般への周知が目的の公式文書である明治改暦の布告で現に使われている
(つまり、それで周知に与すると認識されていた)こと自体が普通に使われて
いた―或いは少なくとも、受け手が普通に理解できた―ことの証拠でしょう。
と思うのですが、どうでしょう?