天正10年6月朔の日食(整理)
本件、桐野作人さんとメールでの連絡がつき進展しました。
すでに日記や具注暦などを調査した結果を『歴史読本』2013年12月号pp.218-223に
「本能寺の変で消えた、信長の真意―当年閏月問題、日蝕はあったのか?」
として書き、訂正見解を発表している由。
p.223
>当年の具注暦(宣明暦)は日蝕を予測していたが、天候の問題で見えなかったと
>考えるべきだろう。そうなると、信長も日蝕を理由にして宣明暦に不信感を
>もったとは思えない。あくまで当年閏月の有無を問題にしたのだろう。
いただいたメールには保留点として「後筆かもしれない」という疑問が
挙げられています。
これについては、もともと具注暦というものが、
(1) 宣明暦により計算して、翌年の暦の原案を作成する。
(2) 御暦奏(11月1日)という儀式で天皇の裁可を得て正式なものとなる。
(3) 具注暦の原本を作成する。
(4) 原本をもとに何段階も筆写されて各所に配布される(→これが現存している)。
という手順で作成され、筆写の際には、枠内の主要な部分をまず書いたうえで
日蝕などの枠外の注記が最後に書かれるという手順ですから、具注暦のうちで
日蝕の注が最後に書かれるというのは事実です[1]。
しかし天正十年具注暦には、幸いなことに半食年後の12月朔にも、同じ書式の
日蝕の注があり、それと比較して特段6月朔に異常な点は見いだせません[1]。
6月朔の食分が観測ではなく宣明暦による推算値に一致することもあり、
観測後の追記という可能性は、ほぼ無視できるのではないかと思います。
[追記]
考えてみれば後世に今回のような議論が起こると予測したわけでもあるまいし
事後(観測後)に追記する動機がないです。
―――――
桐野さんが知らない「決定的な一次史料」が存在するとは思えませんので、
★天正10年6月2日 「本能寺の変」は信長が主張した暦の通りに日食が起きた翌日
>2016/6/2(木) 14:08 饒村曜 | 気象予報士/青山学院大学・静岡大学非常勤講
https://news.yahoo.co.jp/byline/nyomurayo/20160602-00058371/
>天正10年6月1月の日食は、京暦では見逃しとなり、御所を菰で包みませんでした。
★渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス 2013年4月)p.188
>信長は自身で日食を確認し、宣命暦(ママ)の不正確さを再認識した。
というような記述は、事実を確認しないで書かれた創作である可能性が高いです[2]。
[1] このあたりの記述は『日本史を学ぶための<古代の暦>入門』の著者の
細井先生のご教示にかなりの部分を負っています。
[2] 渡邊さんは正論もつぶやいていらっしゃいます。
https://twitter.com/info_history1/status/915882273957863425
https://twitter.com/info_history1/status/920953772724994048
[本件に関する記事]
2015-05-31 天正十年の改暦問題 [2026-04-12 追記]
2017-09-22 天正10年6月朔の日食
2017-09-24 天正10年6月朔の日食(続き)
2017-09-26 天正10年6月朔の日食(さらに続き)
2017-09-27 天正10年6月朔の日食(結局…)
2017-10-02 天正10年6月朔の天候
2017-10-03 天正10年6月朔の日食(整理) ― 本記事
2017-10-05 天正10年6月朔の日食(一次史料?)
[補足]
本件については、日食の問題に限定されない一般的な問題点も複数あるので、
それらについては、別の記事で議論したいと思います。
2017-10-04 「宣明暦」のふたつの意味
2017-10-06 情報の共有の問題
2017-10-07 情報の共有の問題(もうひとつ)
[2026-04-13 追記]
2026-04-10T15:16>「暦変更要求」の真相を最新研究から読み解く
https://x.com/info_history1/status/2042486946417815824
# 右手のやっていることを左手が知らない
すでに日記や具注暦などを調査した結果を『歴史読本』2013年12月号pp.218-223に
「本能寺の変で消えた、信長の真意―当年閏月問題、日蝕はあったのか?」
として書き、訂正見解を発表している由。
p.223
>当年の具注暦(宣明暦)は日蝕を予測していたが、天候の問題で見えなかったと
>考えるべきだろう。そうなると、信長も日蝕を理由にして宣明暦に不信感を
>もったとは思えない。あくまで当年閏月の有無を問題にしたのだろう。
いただいたメールには保留点として「後筆かもしれない」という疑問が
挙げられています。
これについては、もともと具注暦というものが、
(1) 宣明暦により計算して、翌年の暦の原案を作成する。
(2) 御暦奏(11月1日)という儀式で天皇の裁可を得て正式なものとなる。
(3) 具注暦の原本を作成する。
(4) 原本をもとに何段階も筆写されて各所に配布される(→これが現存している)。
という手順で作成され、筆写の際には、枠内の主要な部分をまず書いたうえで
日蝕などの枠外の注記が最後に書かれるという手順ですから、具注暦のうちで
日蝕の注が最後に書かれるというのは事実です[1]。
しかし天正十年具注暦には、幸いなことに半食年後の12月朔にも、同じ書式の
日蝕の注があり、それと比較して特段6月朔に異常な点は見いだせません[1]。
6月朔の食分が観測ではなく宣明暦による推算値に一致することもあり、
観測後の追記という可能性は、ほぼ無視できるのではないかと思います。
[追記]
考えてみれば後世に今回のような議論が起こると予測したわけでもあるまいし
事後(観測後)に追記する動機がないです。
―――――
桐野さんが知らない「決定的な一次史料」が存在するとは思えませんので、
★天正10年6月2日 「本能寺の変」は信長が主張した暦の通りに日食が起きた翌日
>2016/6/2(木) 14:08 饒村曜 | 気象予報士/青山学院大学・静岡大学非常勤講
https://news.yahoo.co.jp/byline/nyomurayo/20160602-00058371/
>天正10年6月1月の日食は、京暦では見逃しとなり、御所を菰で包みませんでした。
★渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス 2013年4月)p.188
>信長は自身で日食を確認し、宣命暦(ママ)の不正確さを再認識した。
というような記述は、事実を確認しないで書かれた創作である可能性が高いです[2]。
[1] このあたりの記述は『日本史を学ぶための<古代の暦>入門』の著者の
細井先生のご教示にかなりの部分を負っています。
[2] 渡邊さんは正論もつぶやいていらっしゃいます。
https://twitter.com/info_history1/status/915882273957863425
https://twitter.com/info_history1/status/920953772724994048
[本件に関する記事]
2015-05-31 天正十年の改暦問題 [2026-04-12 追記]
2017-09-22 天正10年6月朔の日食
2017-09-24 天正10年6月朔の日食(続き)
2017-09-26 天正10年6月朔の日食(さらに続き)
2017-09-27 天正10年6月朔の日食(結局…)
2017-10-02 天正10年6月朔の天候
2017-10-03 天正10年6月朔の日食(整理) ― 本記事
2017-10-05 天正10年6月朔の日食(一次史料?)
[補足]
本件については、日食の問題に限定されない一般的な問題点も複数あるので、
それらについては、別の記事で議論したいと思います。
2017-10-04 「宣明暦」のふたつの意味
2017-10-06 情報の共有の問題
2017-10-07 情報の共有の問題(もうひとつ)
[2026-04-13 追記]
2026-04-10T15:16>「暦変更要求」の真相を最新研究から読み解く
https://x.com/info_history1/status/2042486946417815824
# 右手のやっていることを左手が知らない
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