康熙甲子元法の置閏法と湯若望

昨日の議論は

| 仮に、天保暦置閏法の範疇の中で解決策を見出すとすれば

の話で、当然、天保暦置閏法の範疇外である康熙甲子元法の置閏法も有力な
候補となります。

こちらについてはテクニカルな議論はあまりないのですが、

2015-03-14 第3回2033年問題シンポジウムの記事の最後に書いた

| [1] つまりおそらく湯若望より後の時代の人物が作ったルール

について、状況証拠を列挙しておきたいと思います。

・そもそも「時憲書」内の康熙甲子元法の部分に記載されている。
 (それより前の部分でも、後の部分でもない)

・ちょうど康熙甲子元法が検討されていた時期に、問題となる1699年-1700年が
 含まれ、「宮廷祭祀の都合上、冬至を11月、春分を2月に固定したい」と検討
 されたはずである。

・時憲暦の万年書のうち最初の部分に、実際には使われなかった明代の時期の
 推算結果が示されており、康熙甲子元法の置閏法と不一致の例がある。
 (Susan TSUMURA氏指摘)

・湯若望の時代には200年分の推算しかしていなかったことが、後に問題になった
 にも関わらず、シュリーマンが清を訪れた時代には「湯若望の420年暦」という
 ものが民間で語られていた。

これらから、後世になればなるほど諸々の業績が湯若望に仮託されるようになった
―そのひとつとして康熙甲子元法の置閏法がある―のではないかと思われるのです。

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