琉球王朝の暦日

ryukyu.rb の見直しを行いました。

when.exe では、琉球王の薨去の日付を『コンサイス世界年表』から
とっています。[1]

| 尚真王 大永 6(1526) 12 11 62歳

という具合です。この「大永」は日本の年号です。一方、朔閏表は
島津の薩摩入りまでは中国、以降は日本の朔閏表を用いていました。

今回、確認したところ、もともとの日付は中国暦日で表現されていた
ものを、『コンサイス世界年表』が月と日はそのまま保持して、機械的に
年を中国の年号と年次から日本の年号と年次に置き換えていたことに
気付きました。

島津の薩摩入り以降の薨去の日付で、この問題の影響を受ける[2]のは、
尚豊王の薨去のみで、大統暦1640-05-04甲申 が宣明暦1640-05-03に
あたるという例だけでした。ただし、次の尚賢王の在位は踰年で数え
翌年が元年になるので暦日変換には直接響きません。

when.exe Ruby版では、先日

・島津の薩摩入り以前 - 無条件に中国の朔閏表
・島津の薩摩入り以後 - 中国(デフォルト)と日本の朔閏表を選択できる

ようにしました。(→http://hosi.org/cookies/Ryukyu)


ryukyu.rb 側では、尚豊王→尚賢王の代替わりの日付の表現を、

["[<尚賢王>]0", "@A", "name=[尚賢王];1640-05-04"]
  ↓
["[<尚賢王>]0", "@A", "name=[尚賢王];1640-05-{甲申}"]

と変えて、朔閏表の違いを吸収するようにしました。"[<尚賢王>]0"の
"0"は踰年改元の場合の記法で、1640年の大晦日まで先代の尚豊王の年
として扱う指定になっていますから、実質ユーザには差はありません。

ユーザから見て違いが出たのは、尚宣威王→尚真王の代替わりです。
琉球国中山世鑑』の記述によれば尚宣威王は薨去の前に太陰太陽暦
1477年2月の時点で退位して、次の尚真王の在位は立年で数えます。
このため、1477年2月~8月が変わりました。

[1] ただし、今回、尚金福王の薨去の日付を『中山世譜』で改めました。
[2] 島津の薩摩入り以前は影響をうけませんが、日本と中国で日付が
  ずれるのは、尚徳王・尚宣威王・尚真王の薨去の日付です。これに
  尚豊王も加えて、ryukyu.rb のコメントに日の干支を付記するよう
  にしました。

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