十二辰刻と不定時法

萩藩の報時」の記事で、
|暦法に詳しいごく限られた人々以外の、公私問わずほとんどの人々に
|とって、十二辰刻も不定時法で用いられていたのではないでしょうか。

と憶測を書いたのですが、角山栄『時計の社会史』にもさらに証拠が
ふたつ書かれていました。

1) 『曽良旅日記』に「辰ノ上尅雨止」の記述あり
『奥の細道』随行日記である『曽良旅日記』には十二辰刻で時刻が
詳細に記載されていますが、その中に「辰ノ上尅雨止」のような記述
がある。雨や曇りでは日時計[1]は使えないので、時の鐘でしか時刻は
わからない。時の鐘は不定時法でつかれるので、辰の刻も必然的に
不定時法の時刻と解釈するしかない[2]

2) 柳河春三『西洋時計便覧』(明治2年)の変換テーブル
 八月、二月[3]の中 ― 子ノ時は、十二時から一時四八分
 丑ノ時は、一時四八分から三時三六分
  …
と十二辰刻を不定時法でかつ半時遅れで解釈している。

明治改暦の詔書での、時刻の表現が“間違い”だとされていますが、
一般の人々への周知が目的の文章である以上、実際に書かれたような
表現にしたのも頷けます。

[1] 「日時計は何を測れるか?」の記事に書きましたように、目盛りの
  付け方次第で、定時法でも不定時法でも測ることが可能です。
[2] この事例が我々の観点から都合がよいのは、原則徒歩の旅行中
  なので、香時計や水時計などの定時法を計るような道具が
  使われた可能性も排除できることです。
[3] 秋分・春分を含む月で、夜明けは日の出より早く、日暮れは
  日の入りより遅いですから、こうなります。

[2024-05-16 追記] 『曽良旅日記』分析あり↓
 藤原益栄『文学・歴史を読み解くための暦のはなし』
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 → 2024-05-17 十二辰刻と不定時法(つづき)

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