明治改暦当時の制度

明治改暦の詔書の背景を理解するには、当時の制度を理解することが必要です。

岡田芳朗『明治改暦』P.89-90に、

  天文方に任じられた渋川春海は、このような複雑な課題を次のように処理した。
 まず、頒暦の内容を統一すること、そのために天文方で編纂した毎年の頒暦の雛形
 と同一のもの以外の作成を禁止する。そして、全国の暦師を一定数に限定し、その
 者以外に頒暦の出版を認めないことである。暦師は一種の株仲間を形成して幕末ま
 でそれを維持し、明治五年からは、さらに頒暦商社を組織して明治十五年にまで至
 る。この間、幕府が他の株仲間を禁止し、解散を命じた時も、頒暦という特殊事情
 を配慮して、暦師の株仲間だけは特例をもって存続が認められた。
  天文方は頒暦の内容の統一を保つために、まず翌年の頒暦の原稿である暦草が出
 来上がると、京都の大経師に送り、「御写本暦」を作らせる。この「御写本暦」は、
 初めは特別に彫らせたが、後には大経師暦にそのまま転用できるように、大経師暦
 の試し刷り的なもので間に合わせた。この「御写本暦」を各地の暦師に配った。
  各暦師は「御写本暦」に従って「校合暦」(見本摺り)を作り、天文方に提出する。
 天文方はこれを校正し、誤脱がなければ「押切」といわれる出版許可を発行する。
 そして、いよいよ新しい暦の印刷にかかるわけである。

とあります。幕末から明治初年にかけても、天文方→土御門家暦局→星学局と管轄
組織は変わったものの、実際に頒暦が出版されるまでの流れはそれほど変わりません
でした。同書P.103によれば、明治四年七月五日に定められた「頒暦規則」では、

  この「頒暦規則」は、従来の弘暦者をもって「暦本売弘社」を形成するものと想
 定しており、「其外ノ者タリトモ地方官ノ便宜ニ従テ新ニ其社ニ加入不苦」と但書
 にあるものの、それには大学の同意が必要であったと思われるから、事実上、新規
 の「加入」は困難であったと思われる。
  この「頒暦規則」には「条令」ニか条と追加一か条が付属している。
   条令
 一 大学ノ御用ハ東京年行司承ルベシ
 一 売弘暦ノ原本ハ、大学星学局ニテ翌年ノ分其前年ノ二月、東京行司ニ相渡スベシ

とあります。“株仲間”の弘暦者は冥加金を払ってその権利を維持しつつ、前年ノ二月
に翌年分の原稿を受け取り、日付を揃えて[1]各弘暦者一斉に頒暦を発売していました。

[1] 「同月同日により諸国に発売」―明治六年暦は明治五年十月一日

この流れからわかるのは、翌年の暦の情報は、一般に公開される十月一日以前は、
政府(星学局)と“株仲間”である弘暦者のみが独占し、抜け駆けを許さない仕組み
になっていたということです。

改暦の詔書の目的は新制度を一般に周知することですが、それは基本的に翌年の暦の
情報の周知[2]であって、上記のような制度を当たり前としていた当時の人々にとっては、
まさか翌々年の暦の情報まで周知する必要があるとは思いもしなかったのではないか
と推察します。“株仲間”の弘暦者の権利という観点からは、むしろ周知すべきでは
ない情報であったでしょう。4年周期のどの年が閏かまで改暦の詔書に書いてしまうと、
翌々年(1874年)が平年だということがわかってしまいます。

4年周期のどの年が閏かが、改暦の詔書にも、それに付随する通達類にもない(らしい)
のは極めて当たり前のことです。

[2] 上記のような制度では、グレゴリオ暦の具体的なアルゴリズムは星学局の担当者のみ
  理解しておればよく、一般に周知する必要はないことも指摘しておきましょう。

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