暦の会第373回例会資料

今回、回帰年と春分年の話題を採り上げた発端は、
昨年の第367回例会資料の別表〈二十四節気〉を見て、
これを使えば解りやすく説明できるのではないかと連想したことでした。

が、「今日の話は難しかった」と言われてがっかり ^^;

暦の会第373回例会で用いた資料をこちら↓に置きました。
P.01/P.02上/P.03/P.04/P.05/P.06/P.02下/P.07/P.08/P.09/P.10/P.11/P.12
(質疑応答を一部反映, 高精細画像は上記URLのpcsをpcs/colorに変えると見えます)

吉雄俊蔵は回帰年や春分年に対応する概念に円環年という用語を用いています。
『遠西観象図説』(中)P.39に書かれている円環年の定義は、
 円環年トハ太陽白羊宮ノ初度ヨリ漸次ニ右旋シテ元宮即チ白羊宮
 ニ復ルノ間ニシテ三百六十五日五時四十九分ヲ云フナリ
で、回帰年という用語は使用していません。
ここで、白羊宮ノ初度というのはP.37の説明によれば、定気の春分のことを指します。
さらにP.42に
 円環年ノ日時分ヲ測ルニ三百六十五日五時四十九分ニシテ
という記述があり、吉雄が秒のオーダーの精度の値と認識していたことがわかります。
この定義の円環年は要するに春分年で、このグラフのNorthward Equinoctial Year(緑太線)
にあたるので、最新の天文学的計算でも、確かにほぼ365日5時49分になります。
吉雄俊蔵の仕事は本件については完璧なのです。

「吉雄の計算間違い」という誤った通説が流布していることは、気の毒でなりません。

質疑応答
1. 信長とグレゴリオ改暦(講演の主題とは別件ですが)
>1582年(天正10年)のグレゴリオ改暦を知っていたか?
>また、知っていたら日本でも採用を検討したか?
日本にいた南蛮人宣教師たちがその使用暦を改めたのは1585年ごろ(『フロイスの日本覚書』P.4)
とのことで、知らなかったと思われる。もし知ることができたら検討したかもしれない。

2. 『遠西観象図説』と明治改暦建議の関係
昭和29-30年ごろには認識されていた。『日本暦日原典』の初版から記述は同じ。
したがって青木信仰『時と暦』(1982)の市川斎宮説は学説としては、枝道ということになる。
市川斎宮説と無関係とすると「吉雄の間違い」とは具体的にどのような計算間違い
を想定していたのか逆に疑問。

3.『ラランデ暦書』との関係
『遠西観象図説』出版時にはすでに『ラランデ暦書』は知られていた。
Jean Meeus によると Lalande は一年の値として、365d5m48m45.5sを与えている。
文政年間当時は、ニュートン-ケーグラー系とラランデ系の値が混在していたことになる。
吉雄は元は長崎のオランダ通詞の家系で名古屋在住の蘭学者の由。
なぜ前者の値を採用したか、その経緯はよくわからない。
(おそらく 365d5h49m00s±0.5s の範囲に入る一年の値は寛政暦そのものしかない)

[追記]

『ラランデ暦書』の初訳は19世紀初めでも、『新巧暦書』として出版され、
一般に知られるようになったのは1836年以降でしょうか
(ただし吉雄俊蔵は直接オランダ語の天文書を読んでいたはず)

→「能田忠亮『暦学史論』」もごらんください。

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